学術メンタルヘルス
2025.03.12
脳とこころを動かす「運動」の力――認知機能からメンタルヘルスまで
現代社会の高齢化に伴い、もの忘れや集中力の低下、あるいは気分の落ち込みなどに悩む方が増えています。こうした症状への対策として、薬に頼るだけではなく、「運動」というアプローチが注目を集めていることをご存じでしょうか。実際、近年の研究では、定期的な運動習慣が脳の働きと心理状態を多方面から改善する可能性が示唆されています。本コラムでは、運動が認知機能や心理的ウェルビーイングに与える影響、さらに実践にあたってのポイントをわかりやすく解説します。
運動が脳に及ぼす仕組みと認知機能の変化
神経可塑性を高める可能性
「神経可塑性」とは、脳が新しい刺激に応じて柔軟に構造や働きを変化させる能力のことです。有酸素運動を継続すると脳血流が促進され、特に前頭前皮質や海馬と呼ばれる領域で、シナプスの連結や神経のネットワークが変化すると考えられています。なかでも海馬では、運動によって新しい神経細胞が生まれる「神経新生」が動物実験で確認されていますが、ヒトの成人で同じことがどの程度起きているのかについては研究者の間でも見解が分かれており、現在も検証が続けられています。
たとえば軽度認知障害(MCI)の方を対象とした無作為化比較試験では、6か月間の高強度有酸素運動(心拍数予備能の75~85%、週4回)を行った群で、特に実行機能の面で改善がみられました(Baker ら 2010)。興味深いことに、この研究では効果のあらわれ方に性差が認められ、運動の恩恵を受ける認知領域やホルモンの反応が男女で異なっていた点も報告されています。なお、運動による脳血流の増加や神経新生の促進は動物実験や別の画像研究で示唆されているものですが、ヒトでどの程度生じるかは個人差が大きいと考えられています。
認知機能の具体的な改善
継続的な運動は、下記のように複数の認知領域を幅広くサポートする可能性が、複数の研究やメタアナリシスで示されています。
- 実行機能(計画を立てる・注意を切り替えるなどの力): 比較的安定して改善が報告されやすい領域です。
- 言語流暢性(言葉を素早く思い出す力): カテゴリー流暢性の課題などで向上がみられることがあります。
- 記憶力: 改善を示す研究もありますが、効果の大きさは一定せず、対象者の状態によって差があります。
ただし、これらの効果の大きさは研究によってばらつきがあり、「誰でも必ず大きく改善する」というものではない点には注意が必要です。
これらの効果は、中等度~やや高強度の運動を、週に複数回・1回30分程度継続することで得られやすいと考えられています。たとえば、施設で生活する認知症の方を対象に、毎日15分のサイクリング運動を15か月間継続した研究では、行動・心理症状(BPSD)を評価する指標で改善がみられました(Cancelaら 2016)。ただし、この研究では抑うつを評価する指標については運動による明らかな改善はみられておらず、また途中で参加を中断した方が少なくなかったため、結果の解釈には一定の慎重さが求められます。
一方で、認知機能そのものを長期にわたって大きく改善させることは容易ではなく、運動の効果は「症状の安定」や「生活の質の維持」といった側面であらわれやすいことも、近年の研究からわかってきています。
メンタルヘルスやQOL(Quality of Life)への効果
運動は「心の栄養」?
運動には抑うつ症状をやわらげる効果があることが、多くの研究で報告されています。複数の無作為化比較試験をまとめた解析では、運動が抗うつ効果をもつことが示されており、その効果はおおむね中等度程度とされています(中高年・高齢者を対象とした研究でも同様の傾向が確認されています)。ただし、研究の質を厳密にそろえて解析すると効果がやや小さくなることも知られており、効果の大きさの見積もりには幅がある点には注意が必要です。
そのメカニズムとしては、ストレスホルモンであるコルチゾールの調整、自律神経バランス(心拍変動)の改善、脳内の神経伝達物質や神経栄養因子への作用などが関与すると考えられていますが、どの経路がどの程度寄与するかについては、なお研究が続けられている段階です。
QOL改善へのさまざまな道
健康関連の生活の質を測るSF-36やSF-12といった尺度でも、メンタルヘルスの項目が有意に改善するパターンが多く見られます。一例として、軽度認知障害のある高齢女性を対象に中国式スクエアダンスを導入した研究では、認知機能の指標に加えて、抑うつや生活の質といった心理的な健康指標の改善がみられました(Changら 2021)。仲間とともに体を動かすグループ運動は、社会的なつながりや楽しさが加わることで継続しやすく、心理面にも良い影響をもたらすと考えられています。一方で、すでに認知症と診断された方(軽症~中等症)494名を対象とした大規模な無作為化比較試験では、中強度~高強度の運動プログラムを行っても、認知機能の低下を遅らせる効果は確認されませんでした(Lambら 2018)。生活の質(QoL-AD)にも明確な改善はみられませんでした。このことは、運動の認知面への効果は「予防」や「ごく初期」の段階で期待されるものであり、認知症が確立した段階では、効果の出方が限られる可能性を示しています。
運動プログラムの選び方と続け方
どの種目が最適?
- 有酸素運動: 記憶に関わる脳の領域である海馬の体積を増やす可能性が報告されています。ある代表的な研究では、1年間の有酸素運動により海馬の体積が約2%増加し、加齢にともなう萎縮を補う方向に働いたとされています。脳由来神経栄養因子(BDNF)を増やす効果も、有酸素運動で比較的多く報告されています。
- 抵抗(筋力)トレーニング: 認知面への直接的な効果は有酸素運動ほど一貫していませんが、筋力の維持・転倒予防やサルコペニア(加齢性の筋肉減少)対策として重要な意味をもちます。
- 複合運動: 有酸素+筋力トレーニングを組み合わせたプログラムでは、前頭葉機能(判断力や注意力)に強い効果が認められやすい。
- 高強度インターバルトレーニング(HIIT): 認知柔軟性の向上効果が示唆されますが、負荷が高いため、取り組みやすさには個人差がある点に留意が必要です。
さらに、文化的背景に即したプログラム(例: 日本ならラジオ体操や太極拳、海外ではダンスエクササイズなど)を導入すると、楽しみながら継続できる点が大きなメリットです。近年では、自然環境の中で運動を行うプログラムの有用性も研究されています。屋内よりも屋外の緑地で運動するほうが、気分や実行機能の面でより良い効果が得られる可能性が検討されていますが、まだ小規模な予備的研究の段階であり、今後のさらなる検証が期待されます(Noseworthyら 2024)。
続ける仕組みづくり
重要なのは、「どんな運動でも長期的に続けられるかどうか」です。
- グループレッスン: ソーシャルサポートが得られ、孤独感を和らげる。
- 電話リマインダーやアプリ活用: やる気が低下しがちな方には、忘れずに取り組む助けになる。
- リアルタイム心拍モニタリング: 適正な強度を維持しやすく、飽きにくいという実用面での利点がある。
軽症アルツハイマー病の方を対象とした研究では、16週間の中~高強度の有酸素運動プログラムにおいて高い出席率(平均約84%)が保たれ、神経精神症状(不安や気分の問題など)の改善がみられました(Hoffmannら 2016)。この研究では、認知機能全体に対する明らかな効果は確認されませんでしたが、プログラムにしっかり参加し運動強度を保てた方にかぎって解析すると、認知機能の一部が維持されやすい傾向もうかがえました。こうした結果からは、「いかに継続できるか」がプログラムの効果を左右する重要な要素であることが示唆されます。
この記事の監修者
メンタルクリニック下北沢
院長・精神保健指定医
堀江 宇志
- 【所属学会】
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- 日本精神神経学会
- 日本認知症学会
- 日本臨床睡眠学会
- 日本学校メンタルヘルス学会
- 【経歴】
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京都大学理学部入学後、山口大学医学部に転学。卒業後、成康会堤小倉病院、FLATS ヒルサイドクリニック、八王子メンタルクリニック院長、佐藤メンタルクリニック副院長、下北沢メンタルケアクリニック院長等を経て現職。