学術メンタルヘルス
予測する脳:ベイズ脳理論と精神疾患への応用
私たちが世界を見るとき、脳は目や耳から入った情報をそのまま受け取っているだけではありません。過去の経験や現在の文脈を利用して、「次に何が起こりそうか」という期待と感覚情報を組み合わせながら知覚していると考えられています。
この考えを数学的・計算論的に表現する代表的な枠組みが、ベイズ的推論や予測符号化(predictive coding / predictive processing)です。代表的なモデルでは、高次の脳領域から「予測」が送られ、実際の入力との差、すなわち予測誤差が情報更新に利用されると考えます。視覚野のいくつかの性質をこの仕組みで説明できることを示した古典的な計算研究もあります。
ただし、「脳が予測している」という表現は、現時点では脳全体について確定した単一の法則というより、有力な説明枠組みと理解するのが適切です。予想外の刺激に大きな神経反応が起こる場合でも、その反応には予測誤差だけでなく、刺激への適応、注意、短期記憶、新奇性など複数の過程が関係します。
統合失調症と予測処理 興味深い仮説だが、疾患全体を説明する証拠はない
統合失調症や精神病性障害では、幻覚や妄想を「感覚入力」と「既存の期待・信念」のバランスの変化から説明しようとする研究があります。
たとえば実験室で音と視覚刺激を条件づけると、実際には音がない試行でも音を聞いたと判断することがあります。2017年の研究では、日常的に声を聞く人ほどこの「条件づけされた幻覚」を経験しやすく、計算モデル上、知覚の事前信念(prior)への依存が強いことと関連していました。この所見は、少なくとも一部の幻覚に強い知覚的期待が関与する可能性を支持します。
一方で、統合失調症では逆に文脈やpriorの影響が弱いように見える現象もあります。凹面の顔が凸面に見える中空仮面錯視では、患者群が対照群より錯覚しにくいという研究があり、トップダウンの影響の低下として解釈されてきました。複数の奥行き反転錯視でも同様の群差が報告されています。
こうした一見逆向きの結果について、「感覚に近い階層ではpriorが弱く、より高次の信念では補償的に知覚の事前信念が強くなる」といったモデルが提案されています。しかし、この説明が確立したわけではありません。
実際、2026年に公表された27研究のメタ解析では、統合失調症スペクトラム患者が知覚課題全般でpriorを強く、または弱く利用するという一般的な差は確認されませんでした。幻覚・妄想の強さとprior依存性との安定した関係も認められていません。したがって、現在最も妥当なのは「予測処理の異常が精神病の一部の症状や一部の課題に関係する可能性はあるが、統合失調症全体に共通する単一機序としては証明されていない」という理解です。
MMN 再現性のある群差と、まだ不明な機序を区別する
脳波で測定できるミスマッチ陰性電位(MMN)は、繰り返される音の中に異なる音が入ったときに生じる反応です。
統合失調症ではMMNが平均的に小さいという所見は、多数の研究で比較的一貫しています。また、精神病発症の臨床的高リスク状態(CHR-P)でもMMNの低下が報告され、後に精神病へ移行した人でやや大きな低下がみられた大規模研究があります。
しかし、ここには二つの注意点があります。
第一に、MMNは「予測誤差そのもの」を直接測る検査ではありません。2026年の系統的レビューでは、MMNの時間帯には、繰り返された刺激への神経適応と、予測違反に関連する処理の双方が寄与すると整理されています。
第二に、MMNには統計的な群差があっても、個々人が将来精神病を発症するかを十分な精度で判定できるわけではありません。2026年のバイオマーカー系統的レビューでも、MMNを含む候補指標には再現性がある一方、外部検証された臨床検査として確立したものはないと結論されています。
したがってMMNは、現在のところ病態研究・リスク研究に有用な神経生理学的指標であり、診断検査ではありません。
ドーパミン 精神病との関係は強いが、予測符号化との対応は未確定
統合失調症の病態にドーパミン系が関係することには、薬理学やPET研究から比較的強い支持があります。ただし、古典的に言われた「中脳辺縁系のドーパミンが単純に過剰」という図式は、現在の研究を十分に表していません。
2025年の49 PET研究のメタ解析では、服薬していない患者で線条体ドーパミン合成能の平均的上昇などが認められましたが、脳領域、服薬状態、年齢、性別、罹病期間などによって結果は大きく異なりました。
精神病における「aberrant salience」という考えでは、ドーパミン機能の異常によって、本来は重要でない刺激に過剰な意味や重要性が与えられる可能性が想定されます。さらに予測符号化理論では、ドーパミンが予測誤差の確信度(precision)、すなわち「この誤差信号をどの程度信頼するか」の調節に関与するというモデルがあります。
薬理学的操作によってprecision-weighted prediction errorが変化することを示す研究はありますが、すべての予測誤差信号について一貫して再現されているわけではありません。したがって、「ドーパミン=prediction-error precision」とみなすのは、現時点では検証中の仮説です。
抗精神病薬の有効性やドーパミン系のPET異常はドーパミンの病態的関与を支持しますが、それだけで予測符号化理論全体を証明するものではありません。
うつ病 ポジティブ情報への更新と報酬処理には平均的な差がある
うつ病では、ネガティブな情報を重視し、ポジティブな情報から十分に期待を修正しないという認知傾向が研究されています。
2025年の29報、計3,130人を対象とした事前登録メタ解析では、抑うつ症状が強い人ほどポジティブな反証情報に応じた信念更新が小さいという関連が認められました。一方、この効果は r=−0.11と小さく、ネガティブ情報への更新には安定した関連がありませんでした。
したがって「うつ病では良いことがあっても脳が驚かない」と言い切るより、集団平均ではポジティブ情報を利用したbelief updatingがわずかに弱い傾向があると表現する方が適切です。個人差は大きく、この所見だけでうつ病を診断することはできません。
報酬処理についても、fMRIのメタ解析では、うつ病患者で報酬処理・報酬学習中の線条体や前頭前野を含む活動低下が報告されています。アンヘドニアが強いほど差が大きいという研究もあります。
脳波ではRewP、歴史的にはFRNなどと呼ばれてきた報酬フィードバック関連成分の低下が報告されています。ただし、この研究領域には小標本や測定法のばらつきがあり、登録されたP-curve解析ではうつ病との関連を支持する証拠は「あるが弱い」と評価され、既存研究の統計パワーは約27%でした。
なお、fMRIで線条体のBOLD反応を測定することと、ドーパミン放出を測定することは同じではありません。通常のfMRIは血中酸素化変化を介した間接的な活動指標であり、ドーパミン濃度を直接測定しません。
したがって、うつ病に「報酬処理の平均的な変化」があることは比較的支持されますが、それを直ちに「ドーパミン性予測誤差の障害」という単一機序に置き換えることはできません。
自閉スペクトラム症 一つのBayesianモデルで説明できる段階ではない
ASDの感覚特性、変化への反応、文脈利用などを、予測処理の違いによって説明する複数の理論があります。
その一つが、priorの影響が弱いとする「hypo-priors」モデルです。別のモデルでは、prediction errorに高すぎるprecisionが与えられ、予測誤差を文脈に応じて無視したり調整したりしにくい可能性が想定されています。
実験的支持もあります。たとえばASD成人18人と対照24人を調べた研究では、聴覚MMNそのものは両群に生じましたが、全体的な文脈によるMMNの調節がASD群で小さく、P3bには明確な群差がありませんでした。
しかし、ASD研究全体を見ると結果は一貫していません。2026年刊行の23研究のメタ解析では、simple Bayesian modelが予測する方向に g=0.37の差がありましたが、研究間の異質性が大きく、その理由を課題・刺激・参加者特性などで十分説明できませんでした。著者らも、ASD全体に共通する単純なBayesian imbalanceモデルへの支持は限定的としています。
神経画像の2026年メタ解析でも、一部に予測・誤差処理に関連しうる群差がみられる一方、多くの実験では有意な群差がありませんでした。
したがってASDについては、「予測誤差処理が障害されている」と断定するより、予測形成・不確実性への対応・文脈利用の個人差を理解するための研究枠組みの一つと考える方が妥当です。また、感覚過敏やルーティンへの必要性は当事者にとって現実の支援ニーズですが、その存在自体が特定の計算理論を証明するわけではありません。
バイオマーカーと治療への応用 現在は「可能性」であって標準診療ではない
MMN、RewP、fMRI、計算モデルから得られる学習率やprecisionといった指標には、将来のバイオマーカーとして研究価値があります。しかし、群平均の差が再現されることと、一人の患者の診断・予後を正確に判定できることは別です。
2026年のCHRバイオマーカー系統的レビューでは、MMN・P300などが比較的有望であった一方、約20年間の研究にもかかわらず、臨床実装基準を満たすバイオマーカーはないと結論されました。多変量モデルにも独立した外部検証が不足しています。
治療についても同じ注意が必要です。CBTでは、患者が自分の予測や解釈を検討し、現実の経験と照合することがあります。このプロセスを「内部モデルの更新」と予測符号化の言葉で記述し直すことは可能です。しかし、CBTが有効であることから「CBTはprediction errorを正常化するから効く」と因果的に結論することはできません。CBTの臨床的有効性と、その神経計算機序の証明は別の問題です。統合失調症に対するCBT等はAPA・WHOのガイドラインでも推奨されていますが、予測符号化を前提にした推奨ではありません。
ASDについても、「新奇な刺激に慣らせばprediction updatingが正常化する」という一般的治療原理は確立していません。支援では、個々人の感覚特性・希望・生活上の困難を評価し、予測可能性や構造を確保し、必要な環境調整とエビデンスに基づく心理社会的介入を組み合わせることが重要です。NICEはむしろ予測可能性、明確さ、構造、ルーティン、感覚特性への環境調整を重視しています。
予測符号化をどう位置づけるべきか
予測符号化は、知覚、学習、幻覚、報酬処理など、一見ばらばらな現象を共通の数学的言葉で記述できる点で魅力的です。一方、その柔軟性は弱点にもなります。ある研究でpriorが強ければ「過剰なprior」、別の研究で弱ければ「低次階層での弱いprior」、さらに逆の結果が出れば「precisionの違い」と後から説明できるのであれば、理論は反証されにくくなります。2026年の精神病メタ解析は、こうした広い一般化に対する重要な警告となっています。
今後重要なのは、単に「予測符号化と整合する」結果を示すことではなく、事前に、
「どの患者群で、どの課題条件で、どの階層のpriorまたはprediction errorが、どの方向に、どの程度変化するのか」
を数量的に予測し、競合理論と比較し、独立標本で再現することです。
現在の最も慎重な結論は次の通りです。
予測符号化は精神疾患の症状を考えるための有力な研究枠組みですが、統合失調症、うつ病、ASDの確定した病因ではなく、診断検査でも、治療選択アルゴリズムでもありません。 一部の症状・実験課題には理論と整合する再現性のある所見がありますが、疾患内の多様性、課題依存性、代替機序、臨床的予測力を含め、まだ解決すべき問題が多く残っています。実際の診断・治療は、現時点では確立された臨床評価と診療ガイドラインに基づいて行うべきです。
この記事の監修者
メンタルクリニック下北沢
院長・精神保健指定医
堀江 宇志
- 【所属学会】
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- 日本精神神経学会
- 日本認知症学会
- 日本臨床睡眠学会
- 日本学校メンタルヘルス学会
- 【経歴】
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京都大学理学部入学後、山口大学医学部に転学。卒業後、成康会堤小倉病院、FLATS ヒルサイドクリニック、八王子メンタルクリニック院長、佐藤メンタルクリニック副院長、下北沢メンタルケアクリニック院長等を経て現職。