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2026.08.17

妊娠と精神科の薬 ―― 炭酸リチウム 妊婦への禁忌 解除

2026年6月、精神科薬物療法の長年の前提がひとつ変わりました。双極症治療の基本薬である炭酸リチウム(商品名リーマス等)の添付文書から、「妊婦」への投与を一律に禁じる「禁忌」の記載が削除されました。本稿では、この変更の背景にあるエビデンスを整理し、妊娠週数の基礎知識から実務的な対応までを、確実性の程度に注意しながら解説します。なお本稿は一般的な情報提供であり、個別の診断・治療方針は必ず主治医とご相談ください。

何が変わったのか

2026年6月16日、厚生労働省は医薬局医薬安全対策課長通知(医薬安発0616第1号)により、炭酸リチウムの「禁忌」から「妊婦又は妊娠している可能性のある女性」を削除するよう指示しました。2026年(令和8年)3月25日に開催された令和7年度第12回・薬事審議会医薬品等安全対策部会安全対策調査会での審議を踏まえた措置です。ただし「使ってよい」に変わったわけではありません。改訂後の添付文書では、「妊婦」の項(9.5)に「妊婦又は妊娠している可能性のある女性には、治療上やむを得ないと判断される場合を除き、投与しないこと」と明記され、「生殖能を有する者」(妊娠する可能性のある方)の項(9.4)も新設されて、催奇形性について十分に説明し使用の適否を慎重に判断するよう求めています。

これを受けて2026年7月29日、日本精神神経学会をはじめとする関係学会(報道では6学会)が共同ステートメント「妊婦に対する炭酸リチウム投与の禁忌解除を受けて─適正使用に関するお願い─」を発出しました。趣旨は明快です。今回の解除は積極的な処方を推奨するものではなく、リチウムで安定している方が妊娠した際に、治療の中断を強いられることなく、適切な管理の下で継続できるようにすることが目的です。

「400倍」という数字はどこから来たのか

リチウムが長く禁忌とされた発端は、1970年代の「国際リチウム児登録」です。これは医師の自発的な報告を集めた登録で、そのデータをもとにNoraら(Lancet、1974年)は、心臓のEbstein(エプスタイン)奇形(右心系の弁の形成異常)のリスクが約400倍と見積もりました。しかしこの推定はごく少数の症例に基づくうえ、異常のあった例ほど報告されやすいため(報告バイアス)、過大評価であったと考えられています。実際、1979年にまとめられた最終報告では、登録された曝露児225人のうち心奇形は18人(約8%)、そのうちEbstein奇形は6人(約3%)で、当初の見積もりより大幅に小さい頻度でした。Ebstein奇形はもともと非常に稀な病気で、出生登録では1万出生あたり0.72人(米テキサス州の出生登録、Lupoら2011年)、文献ではおおむね出生2万人に1人前後とされています。

現在最も規模の大きいデータは、Patornoら(NEJM、2017年)による米国メディケイド132万妊娠(1,325,563妊娠)の解析です。妊娠初期にリチウムへ曝露した663例で、心奇形の調整後リスク比は1.65(95%信頼区間1.02〜2.68)。絶対リスクでは曝露群2.41%、非曝露群1.15%であり、「100出生あたり約1人の上乗せ」に相当します。なお主たる比較対照は「リチウムを使っていない、精神疾患を有する母を含む集団」で、別の気分安定薬ラモトリギンを対照とした感度解析でも同様の傾向でした。リスクは用量に依存し、1日600mg以下で1.11(0.46〜2.64)、601〜900mgで1.60(0.67〜3.80)、900mg超で3.22(1.47〜7.02)でした。統計的に有意に上昇したのは900mg超のみで、主たる推定値1.65も信頼区間の下限が1に近い点に注意が必要です。

一方、6件のコホート研究を統合したMunk-Olsenら(Lancet Psychiatry、2018年)では、大奇形全体は上昇したものの(調整オッズ比1.71、95%信頼区間1.07〜2.72)、心奇形に限ると統計的に有意ではありませんでした(1.54、0.64〜3.70。症例数が少なく検出力に限界があります)。この研究では、心奇形のうちEbstein奇形に相当する症例はごくわずかで、リスクを精密に評価するには症例数が不足していました。二つの大規模研究は完全には一致せず、心奇形リスクの大きさにはなお不確実性が残ります。それでも「400倍」から「あっても小さな上乗せ」へと見積もりが大きく修正されたことは確かで、数字は出どころと質を確かめて受け取るべきという教訓を含みます。

これらはいずれも観察研究です。リチウムを使う人は病状が重い傾向があり、薬ではなく病気そのものや他の要因が結果に影響する可能性が残ります。相対リスクだけでなく絶対リスクで捉える必要があります。

妊娠中の管理とやめるリスク

リチウムの血中濃度は妊娠で大きく動きます。妊娠中は腎機能が高まって濃度が下がり、Wesselooら(BJP、2017年)では第1三半期で約24%、第2三半期で最も低下し約36%(95%信頼区間27〜47)、第3三半期で約21%の低下がみられました。逆に産後は腎機能が急速に元へ戻るため、同じ用量では濃度が急上昇しえます。振戦、吐き気などの消化器症状は中毒の初期サインです。血中濃度は妊娠中は数週ごと、末期は毎週を目安に測定します。リチウム曝露例では、妊娠16〜20週ごろに胎児心エコー(心臓の超音波検査)が提案されることがあります。また、母体で安定していても、新生児に一過性の新生児薬物離脱症候群、筋緊張低下(いわゆるfloppy baby)、甲状腺機能や腎機能への影響がみられうるため、出生後の観察が必要です。分娩前後の休薬・減量については、脱水や急な血中濃度上昇を避ける観点から見解が分かれており、一律の結論はありません。

それでも治療を続ける理由は、産後が双極症の最大の再発リスク期だからです。Wesselooらの別のメタ解析(Am J Psychiatry、2016年)では、妊娠中に無投薬だった場合の産後再発率は66%(95%信頼区間57〜75)で、予防的薬物療法(リチウムを含む)を継続した群の23%(14〜37)を大きく上回りました。「薬をやめる」という選択自体が、母子にとって最大のリスクになりうるのです。なお、リチウムの日本の保険適用は「躁病および躁うつ病の躁状態」に限られます。授乳の可否は評価が一様ではなく(多くのガイドラインは慎重〜個別判断)、主治医と個別に相談してください。妊娠中の投与は、精神科・産科・新生児科が連携できる体制の下で行うことが求められます。

妊娠週数と注意すべき時期

妊娠週数は最終月経の初日を0週0日として数え、受精はおよそ2週0日に相当します。受精から妊娠3週末までは「all-or-none(オール・オア・ナン)期」と呼ばれ、影響があれば流産に至るか完全に修復されるかのいずれかと考えられています。器官形成の中心は妊娠4週ごろからで、実務上は4週0日〜7週末を絶対過敏期、8週〜15週末を相対過敏期と区分します。月経の遅れで妊娠に気づくのは4〜5週以降ですから、気づいた時点で最重要期は進行中となります。だからこそ妊娠前からの準備が本質であり、厚生省の通知(平成12年)は妊娠を計画する女性に、通常の食事に加えて栄養補助食品から葉酸400μg/日の摂取(妊娠1か月以上前から妊娠3か月まで)を、神経管閉鎖障害のリスク低減の観点から推奨しています。

他の薬はどうか

バルプロ酸は最も注意すべき薬です。大奇形(形態異常)が用量依存性に約1割(EURAP登録で単剤10.0〜10.3%)にみられ、高用量(1日1,450mg超)では約25%に達すると報告され、神経管閉鎖障害や小児のIQ低下(Meadorら、NEJM 2009等)との関連も示されています。加えて児の自閉スペクトラム症(ASD)との関連が繰り返し報告されています(Christensenら、JAMA、2013年:全コホートでASDの絶対リスク4.42%・調整ハザード比2.9〔1.7〜4.9〕、より狭い自閉性障害(旧分類上の狭いカテゴリー)では同5.2〔2.7〜10.0〕。ただし母がてんかんの集団に限るとASDは1.7〔0.9〜3.2〕へ低下し有意でなくなります)。Hernández-Díazら(NEJM、2024年)でも、てんかんの母をもつ児に限った解析で、バルプロ酸曝露児のASDの8歳時累積発生率は非曝露児4.2%に対し10.5%(調整ハザード比2.67、1.69〜4.20)でした。同解析ではラモトリギン1.00(0.69〜1.46)、トピラマート0.96(0.56〜1.65)で上昇を認めませんでした。バルプロ酸は妊娠可能年齢の女性には原則第一選択にしません。

SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)は、先天異常全体のリスク上昇は大きくないと考えられています。妊娠後期の曝露では出生直後に一過性の新生児不適応症候群(哺乳不良、多呼吸、筋緊張の乱れ、いらだち等)がみられることがありますが、多くは軽症で数日〜2週以内に自然に軽快します。より重い遷延性肺高血圧症(PPHN)との関連も報告されますが、大規模研究(Huybrechtsら、JAMA 2015、約380万人)では絶対リスクは1%未満と小さく、調整後は関連が弱まりました。児の神経発達については、Suarezら(JAMA Intern Med、2022年、曝露14.6万妊娠)が、兄弟間比較で交絡を調整すると関連が消えることを示しました(神経発達症全体のハザード比0.97、0.88〜1.06)。妊娠判明を機に自己判断で中断すると再発リスクが高まるため、勧められません。

ラモトリギンや第二世代抗精神病薬(クエチアピン等)は妊娠中の双極症治療で比較的選択されやすい薬ですが、ラモトリギンは妊娠中に代謝が亢進して血中濃度が下がるためモニタリングが必要とされ、第二世代抗精神病薬では妊娠糖尿病への注意が必要です。ベンゾジアゼピンはかつて口唇口蓋裂との関連が疑われましたが、近年の質の高いコホート研究では明確な上昇は示されていません(新生児の離脱症状には注意します)。2025年12月に「うつ病・うつ状態」の効能で承認された新規抗うつ薬ズラノロン(商品名ザズベイ)は、日本の添付文書上、妊婦が禁忌です(産後うつ病限定の適応ではないこと、米国では産後うつ病のみの適応で、妊娠については禁忌ではなく胚・胎児毒性の注意扱いである点に留意)。

まとめ

妊娠を考え始めた時点で主治医に相談してください。薬の調整には時間がかかり、妊娠に気づいてからでは間に合わないことがあります。国立成育医療研究センター「妊娠と薬情報センター」など、妊娠と薬の相談窓口も活用できます。自己判断での断薬は最も危険です。無治療による再発のリスクは、多くの場合、薬のリスクを上回ります。

この記事の監修者

メンタルクリニック下北沢

院長・精神保健指定医

堀江 宇志

【所属学会】
  • 日本精神神経学会
  • 日本認知症学会
  • 日本臨床睡眠学会
  • 日本学校メンタルヘルス学会
【経歴】

京都大学理学部入学後、山口大学医学部に転学。卒業後、成康会堤小倉病院、FLATS ヒルサイドクリニック、八王子メンタルクリニック院長、佐藤メンタルクリニック副院長、下北沢メンタルケアクリニック院長等を経て現職。