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2025.06.22

予測する脳:ベイズ脳理論と精神疾患への応用

脳は「予測する機械」とも呼ばれ、常に入力情報から未来を予想し、予測と実際の差異を減らすように情報処理しています。予測と合致した刺激には脳はあまり反応しませんが、予測外の出来事には大きな脳反応(予測誤差)が生じ、内部モデルの更新が促されます。このベイズ脳仮説(予測符号化理論)では、脳は過去の経験に基づく先行予測を立て、誤差を最小化するように情報処理を行うと考えます。

近年、この枠組みを用いて精神疾患の症状を説明しようとする試みが盛んです。

統合失調症:過剰な予測と不足する予測

統合失調症では、脳の予測システムの調整不全により予測の過剰予測の不足が生じ、現実との不一致が幻覚・妄想などの症状を招くと考えられます。何もない所に声や物体を知覚する幻聴や幻視は、内部モデルが誤って過剰なトップダウン予測を生成し、感覚入力を凌駕するために起こる現象です。一方、統合失調症の患者さんは視覚錯視(例: 中空仮面錯覚)に騙されにくいことが報告され、文脈に基づく先行予測の弱さが示唆されます。これら相反する異常は、根底に予測誤差フィードバック機構の破綻という共通の原因があると考えられます。

脳波検査でも、統合失調症では予測誤差に対応する指標が異常を示します。標準的なリズムで繰り返される音に不意の変化を加えると生じるミスマッチ陰性電位(MMN)は、統合失調症患者で大きく減弱します。これは脳が予測違反を検知しづらい状態を反映しています。またMMN低下は発症前のハイリスク状態の段階から認められ、将来的な精神病移行をある程度予測できるバイオマーカーとなる可能性も示唆されています。

統合失調症の予測誤差処理障害にはドーパミン神経系の過活動も関与します。中脳辺縁系のドーパミン過剰は、本来無意味な刺激に誤った重要性や意外性のタグ付けを行い、内的モデルの更新を妨げると考えられます。その結果、「自分が狙われている」「意味のない音が声に聞こえる」といった妄想や幻覚が修正されないまま固定化してしまうのです。実際、ドーパミンを増やす薬剤は幻覚・妄想を誘発し、ドーパミン受容体を遮断する抗精神病薬が症状を軽減することからも、ドーパミン異常と予測誤差信号の乱れの関連が支持されています。

うつ病:悲観的予測と報酬信号の低下

うつ病では、将来に対する予測が悲観的に偏りすぎ、良い出来事が起きても脳内モデルが更新されにくい状態と考えられます。患者さんはネガティブな予測ネガティブバイアス)を抱きやすく、「どうせ自分はうまくいかない」という強い先行信念が固定化しがちです。そのため実際に褒められたり成功したりしても驚き(予測誤差)が生じにくく、喜びや達成感につながらない――いわゆる快感喪失(アンヘドニア)に陥ります。

生物学的にも、うつ病では報酬系の予測誤差信号が低下しています。通常、予想より良い結果が得られた際には脳の報酬回路(線条体など)が強く反応しドーパミンが放出されます。しかし、うつ病患者ではこの報酬予測誤差に対応する脳活動が鈍く、報酬課題中の線条体活動やフィードバック関連陰性電位(FRN)の振幅低下として観察されます。複数研究のメタ解析によれば、こうした脳内報酬信号の減弱はうつ病に一貫して見られ、症状の重さ(特にアンヘドニアの程度)と相関することが示されています。ただし個人差も大きく、これらの指標を診断にそのまま使うには慎重さが必要です。

自閉スペクトラム症:予測誤差処理の多様な異常

自閉スペクトラム症(ASD)では、感覚や社会的状況に対する予測の仕方が定型発達者と異なります。特徴的なのは予測の硬直性感覚過敏ですが、その成因には複数の仮説があります。ひとつはASDでは先行予測が弱すぎるために、毎回の感覚入力が新規のものとして過剰に詳細に知覚されてしまうというモデルです。もう一つは予測誤差の重み付けが過大で、文脈に応じた誤差の無視や低減が困難だという見方です。いずれの場合も、結果として予測の柔軟な更新が難しく、環境の些細な変化にも過敏に反応して疲弊しやすくなります。実際ASD当事者には、予測通りに物事が進まないことへの強い不安や、音・光など感覚刺激への極端な敏感さがしばしば見られます。

研究による裏付けも得られています。たとえば音刺激の予測に関する実験では、ASD成人は健常対照に比べて、直前の文脈に応じたMMN応答の変化(グローバル文脈効果)が小さいことが報告されました。これはASDでは予測誤差を文脈で調節する能力が低いことを示唆します。一方で意識的な注意を反映する後段階の脳波(P3b)は両群で差がなかったことから、無意識レベルの予測更新に特有の障害がある可能性があります。ASDでは「常に予測外ばかり」と「予測に固執して変化に対応できない」という両極端が現れうるとの指摘もあります。こうした多様性も含め、予測符号化理論はASDの感覚・認知特性を統一的に説明する有力な枠組みとなっています。

予測符号化理論の可能性と課題

バイオマーカーへの期待: 脳の予測誤差シグナルは客観的指標(バイオマーカー)となる可能性があります。MMNやFRN、線条体の活動変化は、それぞれ統合失調症やうつ病に特徴的な脳反応として注目されています。統合失調症ハイリスク群ではMMN低下が将来の発症と関連する報告があり、臨床予測モデルへの組み込みが試みられています。うつ病でも治療前後で報酬系応答の変化をモニタリングすることで、効果判定やリハビリテーションに役立てる研究が進んでいます。もっとも、これらの指標はあくまで統計学的な傾向であり、診断ツールとして確立するにはさらなる検証が必要です。

治療への応用: 予測符号化の視点は治療法開発にもヒントを与えています。例えば認知行動療法は患者の誤った予測(認知のゆがみ)に現実のフィードバックを与え内部モデルの更新を促す試みと言えます。ASDの療育でも、感覚過敏に配慮しつつ徐々に新奇な体験に慣れさせることで予測更新の柔軟性を高める手法が模索されています。薬物療法の開発にも、報酬予測誤差を増強する作用や予測の柔軟性を高める作用など、新たな評価軸が導入されつつあります。また計算論的精神医学の潮流では、ベイズモデルを用いて患者ごとの予測誤差処理の特性を数値化し、オーダーメイドの介入に結びつける研究も進んでいます。

理論的課題: 一方、予測符号化理論自体の課題として反証可能性の問題が指摘されます。つまり理論があまりに包括的なため、あらゆる現象を後付けで説明できてしまい科学的検証が難しいのではないかという懸念です。しかし近年は予測と異なるパターンの刺激提示で典型的予測符号化と矛盾する脳反応が得られるか検証する研究など、理論を実験的にテストする取り組みも増えています。理論の更なる精緻化と検証を経て、予測符号化モデルは一層有用な形に発展していくでしょう。この理論は症状理解に統一的な視座を与え、患者さんの主観世界を科学的にとらえ直すことで治療やケアにも新たな可能性をもたらすと期待されています。