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2025.04.06

ゾルピデム(マイスリー)とグリンパティックシステム、認知症リスク

睡眠薬の一種であるゾルピデム(先発品名マイスリー)が認知症のリスクに影響する可能性は、多くの患者さんや医療者にとって関心の高いテーマです。高齢化が進む中、不眠症に悩む方は増えており、睡眠の質と脳の健康との関連が注目されています。一方で、睡眠薬には依存や転倒などのリスクが知られており、「長期使用すると認知症になりやすいのではないか?」という疑問も耳にします。この記事では、ゾルピデムと認知症リスクの関係について現在得られているエビデンスをわかりやすく整理し、そのメカニズムの考察や限界、現時点での推奨について解説します。

 

睡眠と認知症には深い関連があることがわかってきました。不眠や短い睡眠時間そのものが将来の認知症リスクを高める可能性が示唆されています。例えばフランス・イギリスの共同研究(Sabiaら、2021年)では、50~60歳時点で睡眠時間が6時間以下と短い人は、7時間睡眠の人に比べて約30%認知症になりやすいことが25年間の追跡調査で示されました(ハザード比 HR 1.30, 95%信頼区間 1.00–1.69)​。このように睡眠不足自体が脳に悪影響を与えうるため、不眠症に対して適切な対処をすることは重要です。ただ、その対処法として睡眠薬に頼る場合、長期的な安全性について慎重に考える必要があります。以下では、ゾルピデム使用と認知症発症リスクに関する主な研究知見を紹介します。

 

ゾルピデムと認知症リスクの関連については、主に観察研究(患者を長期間追跡するコホート研究や、認知症患者と非患者を比較する症例対照研究)が多数報告されています。重要なエビデンスのいくつかを時系列で見てみましょう。

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  • 2015年(台湾)症例対照研究 – Shihら: 台湾の国家健康保険データを用いた大規模な症例対照研究では、ゾルピデム系薬剤を使用した高齢者は、使用していない同年代高齢者に比べて認知症を発症するオッズ比 (OR) が1.33(95%信頼区間 1.24–1.41)とやや高いことが報告されました​。OR=1.33とは、およそ33%のリスク増加に相当します。この研究は「ゾルピデム使用と認知症との関連は見られるが、因果関係は断定できない」とし、著者らは特に「一部の認知症は薬の中止で改善しうる可逆的なものかもしれない」と言及しています​。つまり、ゾルピデム使用者に認知症が多く見られたものの、これは薬剤自体の影響か、不眠という症状の影響か判別が難しいという慎重な解釈でした。

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  • 2017年(台湾)コホート研究 – Chengら: 続いて台湾から報告された後ろ向きコホート研究では、65歳以上の高齢患者6,922人を最大10年間追跡し、ゾルピデム使用量とアルツハイマー型認知症発症の関連を解析しました。その結果、累積投与量が多い群(処方開始1年で180日分以上相当を使用した群)で認知症発症リスクが有意に高く、未使用者との比較でハザード比 (HR) 2.97(95%信頼区間 1.61–5.49)と約3倍のリスク増加が示されました​。少量のみの使用群との比較でもリスク上昇が認められており(HR 4.18, 95%CI 1.77–9.86)​、特に高用量の継続使用がリスクを高める可能性が示唆されました。ただし、この研究でも因果関係の証明には至っておらず、「高齢患者でゾルピデムを長期使用する際は注意が必要」と結論付けています​。

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  • 2018年(韓国)コホート研究 – Leeら: 韓国の国民健康保険データを用いた約27万人(50歳以上)を対象とする前向きコホート研究では、5年間以上の追跡期間中における睡眠薬使用とアルツハイマー型認知症の発症が調べられました​。その結果、ベンゾジアゼピン系またはゾルピデムなどのZ薬を30日以上使用した群では、非使用群に比べてアルツハイマー病の発症リスクが約1.75倍に上昇していました(HR 1.75, 95%CI 1.67–1.82)​。同じデータから算出された全ての睡眠鎮静薬の使用有無で見た場合のリスクもHR 1.79(95%CI 1.72–1.86)とほぼ同程度で、統計的に有意な関連が示されています​。さらに種類別・用量別の解析では、抗うつ薬や抗精神病薬(不眠症状緩和目的で少量用いられることがある)についても有意なリスク増加がみられましたが、その中でもゾルピデムやベンゾジアゼピン系の使用が特にリスクと関連していたと報告されています。

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  • 2019年(台湾)コホート研究 – Tsengら: 台湾の研究グループからNeurotherapeutics誌に発表されたコホート研究では、高齢者26万余りを対象に睡眠薬の半減期の長短や多剤併用まで考慮した詳細な解析が行われました​。追跡の結果、短時間型ベンゾジアゼピン系およびゾルピデムなどのZ薬の使用者は、長時間型ベンゾジアゼピン系使用者よりも認知症発症リスクが高いことが示されました(短時間型BZ系: 調整後OR 1.98, 95%CI 1.89–2.07、Z薬: OR 1.79, 95%CI 1.68–1.91、長時間型BZ系: OR 1.47, 95%CI 1.37–1.58)​。さらに、2種類以上の睡眠薬を併用している場合はリスクが著しく高まり、非併用に比べオッズ比4.79(95%CI 3.95–5.81)と約5倍にも達しました​。この研究は「特に半減期の短いタイプの睡眠薬や複数併用でリスクが高まる可能性」を示唆しつつも、著者らはやはり交絡因子の影響や因果関係の未確立を認め、「今後介入研究などで明確化する必要がある」と結論付けています​。

 

以上のように、観察研究の多くは「ゾルピデム使用者で認知症の発症率がやや高い」という関連性を報告しています​。リスク上昇の程度は研究により異なりますが、おおむね1.3~2倍程度で、高用量・長期・多剤併用でリスクがさらに高まるという傾向が見られます​。一方で、すべての研究が一致しているわけではありません。例えば、ある韓国の解析では男女別にゾルピデム使用と認知症を検討しましたが、男女とも有意な差が見られなかったとの報告もあります(Jeeら、2020年)とされています。また、メタ解析(複数の研究を統合した解析)の結果にも注目すべきものがあります。

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  • 2022年 メタ解析 – AlDawsariら: 35件の観察研究を統合したシステマティックレビューとメタ解析では、睡眠鎮静薬全体の使用による認知症リスクのプールオッズ比は1.33(95%CI 1.19–1.49)と有意な増加を示しました​。特にZ薬のみの解析ではOR 1.43(95%CI 1.17–1.74)と約1.4倍のリスク上昇が示されています​。しかしこの解析で興味深いのは、データの取り扱いによって結果が変化した点です。解析チームが交絡因子調整の不十分な研究を除外したり、認知症の「前駆症状による処方 (プロトパシー)」の影響を避けるために睡眠薬処方後数年間の経過を除外する感度分析を行ったところ、BZ系・Z系いずれについてもリスク上昇が統計的に有意ではなくなったのです​。具体的には、潜在的交絡を厳密に調整するとBZ系のORは1.14(95%CI 0.82–1.58)、Z薬はOR 1.29(95%CI 0.78–2.13)とリスク増加が消失しました​。著者らは「全体として睡眠薬使用と認知症リスクに明確な関連は認められず、観察研究で示されたBZ系薬剤のリスク増加も、逆因果(認知症の初期症状として不眠が出現し睡眠薬が処方されるケース)や適応バイアス(不眠や不安など他の要因による影響)を除くと有意ではなくなる」と結論付けています​。この結果は、これまでの関連性の多くが交絡要因によって生じた可能性を示唆しており、因果関係を判断する難しさを物語っています。

 

以上のエビデンスを総括すると、「ゾルピデム使用と認知症リスクの関連」自体は多数の研究で指摘されていますが、その解釈には注意が必要です。

ゾルピデムなど睡眠薬の使用と認知症リスク上昇が観察される理由として、いくつかの仮説が考えられています。大きく分けると、生物学的メカニズムによって睡眠薬自体が脳に影響を及ぼす可能性と、背景要因によって見かけ上リスクが高くなっている可能性の二つがあります。それぞれについて見てみましょう。

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  2. 薬剤の生物学的影響(直接作用仮説): 長期にわたるゾルピデムの使用が脳の神経に直接的な悪影響を及ぼす可能性です。ゾルピデムはGABA作動性の神経抑制作用を持ち、短期的には鎮静・催眠効果をもたらします。しかし慢性的な使用により脳の可塑性や代謝に影響を与える可能性があります。例えば、一部の動物実験ではゾルピデム投与により海馬(記憶に重要な脳部位)のニューロン活動が低下するとの報告もあり​、これが長期では記憶形成に悪影響を及ぼす可能性が指摘されています。また、最新の研究では脳の老廃物排出機構であるグリンパティック系への影響も注目されています。2023年にデンマーク・英国の研究チーム(Hauglundら)はマウスを用いた実験で、ゾルピデムがノルアドレナリン作動の神経振動を停止させ、睡眠中の脳脊髄液による老廃物「掃除」機能を妨げることを発見しました​。深いノンレム睡眠中にはノルアドレナリンのゆっくりとした周期的変化が血管の収縮・拡張を同期させ、これが脳内の老廃物を排出するポンプの役割を果たしますが​、ゾルピデム投与下ではこのポンプ作用が十分に働かず脳内に老廃物(例えばアルツハイマー病の原因物質であるアミロイドβなど)が蓄積しやすくなる可能性があります​。研究者らは「睡眠薬による睡眠は自然な睡眠とは異なり、脳の回復機能が十分に発揮されない可能性がある」と指摘し、睡眠薬の使用は短期間・最後の手段にすべきだと警告しています​。もっとも、こうした知見は現時点では動物モデルでの結果であり、人間の脳で同様の現象が起きているかは今後の検証が必要です​。他にも、睡眠薬が睡眠の構造(ステージ)を変化させることによる影響も考えられます。ゾルピデムは入眠を助けますが、深い睡眠やレム睡眠の割合に影響を与える可能性があります。深い睡眠は記憶の固定化や先述の老廃物除去に重要な時間帯ですので、その減少は長期的には認知機能にマイナスに働くかもしれません。ただし、この点に関するデータは限定的であり、はっきりした結論には至っていません。

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  4. 背景要因の影響(間接仮説): 観察研究でゾルピデム使用者の認知症リスクが高く見えるのは、睡眠薬そのもののせいではなく、背景にある不眠症や他の要因のせいという見方です。例えば、不眠症状はアルツハイマー病の前駆症状として現れることが知られています。認知症のごく初期段階で脳内変化により睡眠リズムが乱れ、不眠となって睡眠薬が処方されるケースでは、因果関係は「認知症(の初期状態)が原因で睡眠薬使用が結果」となり、本末が逆です。このプロトパシー・バイアス(逆因果関係)を除去する解析ではリスク上昇が消えるという前述のメタ解析結果もありました​。また、不眠そのものや、それに付随する不安・うつ傾向など基礎疾患がリスクを高めている可能性もあります。不眠症の背景にはストレスやうつ病、生活習慣病など様々な健康要因があり、それらが認知症の危険因子として作用している可能性があります。睡眠薬を常用する人はしない人より健康上の問題を抱えている割合が高い傾向があり、観察研究では完全にそうした要因を統計調整しきれないことも多いです(交絡因子の問題)。例えば教育歴の違いや喫煙・飲酒習慣、社会的つながりの有無といったライフスタイル要因も認知症リスクに影響しますが、医療データのみを用いた研究ではそれらを十分考慮できない場合があります​。実際、2020年の台湾の研究でも喫煙歴や飲酒量、家族歴など考慮できなかった点を限界として挙げています​。このように、「睡眠薬→認知症」という直接の因果よりも、「不眠症やそれに関連する要因→睡眠薬使用」と「不眠症や関連要因→認知症」という共通要因による二次的な関連である可能性は十分にあり得ます。

 

以上二つの仮説は相反するものではなく、同時に存在しうるものです。つまり、ゾルピデムの長期使用は脳の老化に何らかの影響を与えている可能性もあるが、一部には元々の不眠傾向や体質が認知症リスクを高めているだけかもしれない、ということです。現在のところ、どの程度が前者(薬剤の直接影響)でどの程度が後者(背景要因)なのか明確にはわかっておらず、この点を解明するにはさらなる研究が必要です。

 

エビデンスの限界: ここまで見てきたように、ゾルピデムと認知症リスクに関する知見の多くは観察研究による関連性の報告です。観察研究ではどうしても因果関係の推定に限界があり、完全に他の要因の影響を除去することは困難です。また、認知症発症までには長い年月がかかるため、10年程度の追跡では結論を出しにくいという課題もあります。現時点でランダム化比較試験(RCT)のような手法で長期的影響を調べた研究は存在しません。倫理的にも認知症リスクを目的に長期間薬剤投与を続けるRCTは難しいでしょう。このため、我々は「関連はあるが因果関係は未確立」という立場を取るのが適切です。実際、臨床の専門家の中には「適切にゾルピデムを使って睡眠を確保するメリットは、仮説上のリスクを上回る」と指摘する声もあります。

 

「高齢患者にゾルピデムを適切に使用しても認知症を引き起こすという懸念は持っていないし、十分な睡眠を取ることの利益の方が大きい」とする専門医も多くいます​。このように専門家間でも見解は分かれており、決して「ゾルピデム=将来必ず認知症になる」というような単純な話ではないことに注意が必要です。